そんな中、自分のことも他人のことも一緒くたに、どうしよう、という気持ちのまま山崎農園に足を運んだ際、光男さんがふと私にこう切り出しました。

監督、カメラ、編集|町田泰彦 声|東野翠れん 音楽、演奏|澤渡英一 主演|山崎光男 マスタリング|ウエヤマトモコデザイン|松井雄一郎 原作|「ハトを、飛ばす」 主題歌|トマス・メンデス「ククルクク、ハトよ」 製作|2016年フォーマット|HDカラー 尺|72分 製作|ハトを飛ばす製作委員会

私の町に、それはそれ、これはこれ、とでも言うように、私が右往左往している間にも淡々と野良仕事を続ける農夫がいました。土の恩恵を存分に受け、そこに根ざしながら空高く飛ぶ術を知っているハトのようなひとりの農夫が、私の町には、住んでいました。土地と空とは、それぞれがそれぞれを写した鏡像だ、ということを鳥が空を通して知っているように、ハトをやる農夫は土を通して知っていたのでしょうか。いや、土に活かされ空を知る彼こそが、空と土地の間にある一枚の鏡なのかもしれません。

人は、自然は、文化は、科学は、風は、そしてあらゆる命は、どこから来て、そしてどこへとゆくのでしょう。

ハトが通る空の道に標識がないのは当然ですが、ここを、まさに、今、そして私を通過するかもしれない、とひたすらに待つ時間が沢山ありました。津軽海峡の混濁とした水面を見ながら待ち、福島の白河の水の抜かれた田んぼを眺めながら待ち、そんなことを繰り返し、つくづくと、待つことに終わりはないなと思ったのでした。今日蒔いた種が明日実を成らすことはないですが、繰り返される毎日の中で、その瞬間を待ちながら誠意をもって「今」を生きていると、気がつけば技術は向上し、そして、生活が向上しているのでしょう。待つ、ということ、待つという環境を整えていくということにこそ生活の基礎がある、そのことを、撮影の合間に、痛感いたしました。

体験したことのないほどに揺れたその夜、大地がひたすら恐ろしくなって見上げた空に境界はなく、満天の星が瞬いていて救われる思いがしました。都市のあかりの届かぬ空に敷き詰められた無数の光源に見とれていた私はその時、少しだけ古代の人に近づいていたのかもしれません。けれども数日が経ち原発が爆発すると、今度はその空を見境もなく渡る風のこと、そして、その風が触れた土のことが無闇やたらに恐ろしく感じられ、そうなって、私は私自身をつくづく現代に生きる人なのだと思い知りました。

ほうれん草の出荷が停止された頃には放射能についてのある程度のことが情報として知れていましたが、わたくし個人の先行きに光を見つけることなど、遠い遠い未来のことのように思われました。農家が丹誠込めて育てた野菜の行き先すら見つからないのですから、「わたくし」というふわふわとしたものの未来など、目に見えぬセシウムと一緒になって風に乗って散り散りに散ったままでした。

私は、その答えを求めるために一枚の鏡(レンズ)を覗き込みました。映画は、歴史上、輝かしいものばかりを捉えていたわけではありませんが、光男さんの口から零れ出た「映画」は、その時、私には、きらきらとまばゆいばかりに輝いて感じられました。私の中から散り散りになって散っていった、光、そして未来、東北、そんなものが撮れるような気が、漠然とですが、したのでした。