![]() |
||||
![]() |
||||
| 平成20年2月17日 高山さんへ 返事が遅くなってしまいました。気がつけばもう旧正月も過ぎてしまいました。今年は2月7日だったようです。前回、月、の話があったのでこじつけのようですが、新月、に引っ張られるように新たな気持ちで書き始めています。 先日、私の家の木材を高山さんにも一緒に刻んでいただきました。もともと高山さんには木工作家として新しい家の家具製作に関わっていただこうと思っていたのですが、ひょんなことから刻みの一部をお手伝いいただくことになりました。ありがとうございました。 高松邸は基礎工事を無事に終えて、刻みの段階に入っております。刻みが始まればあっというまに棟上げ式を迎えることになります。私の家は軸組ではなく、木材を積み上げる校倉造りのような構法ですので、刻む量が多く、簡単に棟上げとはなりません。どちらにしても、それぞれ私にとっては大切な仕事です。今年は春先から二棟もの棟上げがあって嬉しい限りです。 今回、自分の家を建てるにあたって、いつも一緒に仕事をしている工務店の大工さんとではなく、あえて若いフリーの大工さんと組みました。私も一緒に材を刻みたかったというのがひとつの理由ですが、彼の手が、慣れていない、ということがもっとも大切な理由でした。慣れ、というのは経験や実績も関係してくるのかと思いますが、じつはそれはあまり関係のないことのような気もするのです。つまり、いくら実績や経験がなくても慣れたふうに仕事をするひともいれば、実績や経験があっても決して慣れたふうに仕事をしないひともいます。そのひとの性質でしょうか。そういう意味で、入沢工務店の棟梁は慣れたような仕事をしませんが、いかんせん、あまりにも実績と経験があるために、いつも私の思考が仕事のスピードについていけません。今回はゆっくりと仕事がしたかったということもあり、あえて若い大工さんを指名しました。私の家に関して私は建主でもあるわけですから、少しだけ贅沢をさせていただきます。 ひとの性質ということを書きましたが、道具、はそのひとの性質にどのような影響を与えるでしょうか。性質、は、道具、よりも先にあるので、おそらく道具はそのひとの性質のある側面を、強化、もしくは、加速させる、といったほうが、影響、というよりもわかりいいかもしれません。道具はむかしから人間の目的のためにありました。道具となったそのものは、人間の目的のために存在しているとは限りませんが、それが生活のためか宗教のためかは別にして、目的を遂行するために利用されたのであれば、つまり人間の目的のためにそのものは道具としてあるわけです。しかし、おそらく自分だけのことではないと思いますが、あるものを道具として利用すると、道具自体に、なにか目的を遂行する意志のようなものが内在しているのではないかと思えてくることがあります。チェンソーを手にすると、木を伐る意志がふつふつと芽生えてくるのですが、それが自分の内部から生じているのか、道具から生じているのか、わからなくなることがあります。例えば、光が不足して力なく杉に寄りかかるように育っている雑木があったとします。もし、自分自身にその雑木を残して別の場所に移植するかを問うたとしたら、移植する方を9割9分の確率で選択をしていたとしても、チェンソーを手にしていると、その9割9分という数字が頼りなく感じることがあるのです。実際に私は現在の敷地をつくるにあたって百本ほどの木を伐りましたが、ついつい、というか、容赦なくか細い雑木を一緒に切り倒してしまいます。 先日、こういうことがありました。車で片側一車線の道を走っていて、私の前後にも車が走っていましたが、側道におばあさんの姿があったんです。座って沿道の草木をいじっているのかと思って通り過ぎたんです。ところが、自分が目にしたイメージが頭に残っていますから、それを丁寧に見直すんですね、車を前進させながら、頭の中で、すると、どうやらおばあさんは草木をいじっているのではなく、つまずいて転んでいたということに気がつくわけです。バッグのようなものが、その、草木の中に放り投げられていたので。しかし、そう思ったときには車はずっと行き過ぎているわけです。反対車線にも車は走っているし、Uターンは車幅が狭いので簡単にはできない、怪我をしているようでもないから、と思っている間に、車はさらに数百メートルも先にあるわけです。車は運動する、主に前進する道具ですから、ある意味仕方がないわけですが、これが、車というスケール、というか、車のもっている前進する意志なのでしょうか、徒歩であれば、おそらくほとんどの人が立ち止まって声をかけるでしょう。おばあちゃんを助け起こさなかった言い訳をするつもりはありませんが、しかし、車というスケールでは、こうなってしまう可能性があるわけですね、恥ずかしいことに。この道具の持つスケール、というか、意志に無自覚ではいけないと思うわけなんですが。つまり、道具を使うことによって、強化、もしくは、加速するひとの性質の側面とは、9割9分のほうとは限らず、1分の部分が強化、もしくは、加速させられることがあるということです。 もちろん、自分の性質などわかっているようでいてわかったものではありませんから、つまり9割9分も1分もわかったものではないのですが。 自分の家を建てる敷地をつくった際に、知り合いの作家さんから購入した古いユンボを使ったのですが、使い始めて半年以上経つので、だいぶ、こう、自分の身体の延長のような感じで操作ができるわけです。案外、デリケートに土をほじったりできるようになったのですが、ユンボから降りると、体がすっかり勘違いしていることに気がつくわけです。勘違いをしないように、30分に一度はエンジンを切って、スコップで土をほじくるようにしているのですが、やっぱり30分もユンボを動かしていると、降りた瞬間に体が勘違いしているんです。あたかも自分にそれだけの土を動かせる能力があるかのように。言語がなにかを可能にすることもあるかと思いますが、言語が人の行動や思考を限定することも多々あります。それと同じように、道具は人に恩恵を与えてきましたが、人からなにかを奪ってもきたのです。先ほどの話に則していうと、1分の部分が強化されてしまった場合、多くのものを含む9割9分の存在が押しやられてしまいます。逆に、そうなってはじめて9割9分のあり方が問われるといってもいいかもしれませんが。 高山さんは家具をつくる上で使用する道具をかなり限定していますね。もちろん、昔の職人さんに比べれば、遥かに便利な道具を手にしているとは思いますが、便利なものを極力使わないで、基本的には切って打って、って感じで家具を作ります。私も、できるだけ初期段階の図面は手描きで行うようにしていますが、どうしても、コンピューターに引きずられてしまいます。それでも道具を使う際には、大切な感覚をやすやすと失ってたまるか、という抵抗を常々感じています。今回、自分の家を高田大工を始めいろいろな人に助けられながらも自分で建築しようと思ったのは、例えば山口棟梁が「どんなに高くても木の上に乗っているんだったら、怖くはないよ」といったときの棟梁の感覚を共有したいと思ったからです。 人間は、人間にとって有用なものだけを知覚しているといわれています。つまり、私たちの世界は、人間にとって都合のよいものの姿をしています。それでも、ひとがみている世界は決して画一ではありません。優れた画家の目や優れた職人の目が見る世界はどんな姿をしているのでしょう。そしてどんな仕事をしている人でも、その仕事に慣れてはいけないような気がします。慣れた人の目は、世界を固く、不自由なものにしてしまいます。家はいろいろな道具が使われて建っていくものですが、結局それを使うのはひとの手です。家に限りません。できれば道具は、世界を柔らかく、自由なものにするために役立つものであってほしいと思います。 最初にも書きましたが、近々、高松邸の棟上げ式が行われます。簡略的に執り行うつもりですが、土木の親方に民謡を披露してもらおうと思っています。家を建てる行為の中には時間が詰まっています。棟上げ式は、そういった綿々と続く時間と、施主のもっている現代的な時間とがバチンと合わさる儀式のようにも思えます。この先何年も家を守っていく棟が宙を舞う様子に何かを感じないわけにはいきません。宙を舞っているのは一瞬です。宙に舞っているときだけ、材はどの時間にも属さないかのように思われます。 |
||||
| 過去のやりとり 平成19年11月19日 高山英樹さんから町田への手紙を読む > 平成19年10月04日 町田から高山英樹さんへの手紙を読む > 平成19年08月22日 高山英樹さんから町田への手紙を読む > 平成19年07月21日 町田から高山英樹さんへの手紙を読む > |
||||