Archives for the ‘空’ Category

くくるくく、はとよ

cucurucucu paloma

Composed: Tomás Méndez
Sang and Played: Phoka
Written: Yasuhiko Machida
Arranged: Eiichi Sawada
Recorded:Takushi Yoshikawa (Saule Branche Shinchõ)
Video: Daisuke Konno

くくるくく、はとよ

作曲:トマス・メンデス
演奏:Phoka
作詞:町田泰彦
編曲:澤渡英一
録音:吉川拓志 (Saule Branche Shinchõ)
映像:金野大介

つまずき

科学(ニュートン)は色を数(波長や周波数)で定義した。しかし、実際のところわれわれは世界の中において色を数で捉えていない。われわれは、色を、内面の感情や環境における関係性において、例えば、青を緑と感知したりする。ゴータマ・シッダールタは、世界の見え方を変えてしまうその場限りの「感情」と「私」を=イコールで結ばない精神性を保つことが個人が幸福になる道だ、と人を諭した(と僕は思っている)けれど、実験に参与した者の意志(意思/意識)が実験結果(世界の見え方)を変えてしまうということが科学的に証明された世界となって問われてくるのは、つまるところ「私」から切り離したその「感情」でもって何を意志するべきなのか、ということになる

「わくわくする方へ舵を切りなさい」

スピリチャルの方に科学が追いついてきた、というはそういうことなのかもしれない。わくわくしている人が経験している世界と、困難を感じ続けている人が経験している世界は同時(パラレル)にあるのだけれど、しかしその人が知覚している世界はひとつしかない(いや、結局は同時に経験しているということなのかもしれないのだけれど)。とにかく、どっちの世界に含まれたい?と問われれば前者がいいと即答する人が多いはずで、でも、好きなことしかしていない僕でも「わくわく」ということがなかなか持続しないのが現状だ。困難を感じ続ける「感情」をどう「私」から区別するのか、という訓練を思春期からずっと続けてきた僕にとって、季節の変わり目に吹いた風を感じた時みたくわくわくすることって、そうそう、引き寄せることができない

僕が、建築よりも土木(水脈)の仕事に没頭してしまうのは、そんなところにつまずいているからかもしれない

空/家/大地

2016031101

空と大地を繋ぐもの(沖縄、2015)

舞を舞う

2014062001

踊りの原点から遠くはなれた私の身体が、その原点らしきものと出会っていることに反応をして心躍っている

北茨城

どこを飛ぶともわからぬ大地と空にあって、通ってくれたらいいなと思いながらまちぶせをする。地形や風を読んではいるけれど、無駄を覚悟でまちぶせる。じっと息をひそめて待っていると、その息が次第に環境に溶けていくのがわかる。動物も山も人もなにもないような気になる。けれど、待ち望んでいたあなたが目の前を通ると、はっと、全てがまた環境から突出して、人間だ!という気持ちが一気に沸き立つ。鷹もそんな感じではっとなって、ハトを襲撃している。そういやー、君もハトくんを待っていたんだよね。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

お見合い

空と大地が出会うところである、屋根。空に一番近い場所で建築に携わる茅葺き(板金)職人さんですが、ここは、もっとも足下を気にする場所でもあります。一日乗っていると、大地の平らさがとても意識されるんですよね。

空いちまい(上)

世界は、空いちまいで繋がっていて、それはそれで事実であるのだけれど、地面で生活をしているひとにとってそのことを実感することは難しい。

空いちまい(下)

「放射能が地面を、そしてその地面が育てた水や農作物、山菜やきのこを汚染した」というのは観念に近いかもしれないけれど、汚染されてもなお、野苺の甘酸っぱさは、まぎれもなく私の口の中に実感としてある。震災後、何度となく見た放射性物質の拡散予想図が私の空を狭くした。空の狭さは、私を動的にした。東北もまた、空が狭まって出会った土地である。動くということは逆に、空の広さを実感することでもある。これから私は、狭くなった私の空を、ハトと旅することによって広く広くしたいと思う。

棟木が舞うとき

棟木が空を舞うとき、これからこの家で生きてゆく人のことを思うその合間合間に、なぜだか、亡くなった近しい人のいくつもの顔がふつふつと思い起こされます。どうも、棟木という一本の材木は、山から海へと流れる川のように、その両者を分ちつつも繋げているようなのです。それも、空を舞うその瞬間に限って。

待つこと

待つことに終わりはないなって、つくづく思います。今日蒔いた種が明日実を成らすことはないけれど、繰り返される毎日の中で、その瞬間を待ちながら誠意をもって「今」を生きていると、気がつけば技術は向上し、そして、気がつけば生活が向上している。待つ、ということ、待つという環境を整えていくということにこそ生活の基礎がある、そのことを、この一年で、痛感しました。

最後の冒険家

石川直樹さんが最後の冒険家と称した神田道夫さん。彼が最後の冒険へと飛び立つ最後の最後に踏みしめただろう大地は栃木でした。毎年、冬のおなじころでしょうか、何艘もの気球が家の上空を流れていくのに出くわします。空に浮かぶ気球を見ると、ふと、神田さんの目線が意識されるのです。海しかない、そんなところに不時着する気持ちなど私からは遥か遠いはずなのに、一瞬ですが、その海を感じるのです。海に面していない栃木にいて、そんなことを可能としてくれる、一年のうちでも貴重な日。きっと私の中で、神田さんはまだ冒険の途中なのでしょう。

富士の裾野

山の麓に押し寄せる生活の波は、こうしてみるととても儚い夢のよう。たしかにそこに山はあるのに、、、、。私の生活に、本当に寄り添ってくれるものが何なのか、表現者として考えさせられた、富士の裾野に立って。

稲作を終えて

大地を見下げていると、そこに空も見えるような気がするんだけれど、空を見上げていて、そこに大地が見えると思えるときもありますよね?

青、まだ遠い

箱船は いっそうの 助け

運ぶのは いっつうの 手紙

青、まだまだ遠い

青、遠い

空は 水の底

躁は 白い鳥

青、遠い

安達太良山

あなたがいったほんとの空がここにある。この安達太良の空を、光太郎の肉に宿り、精神に座っているあなたが飛んでいる。わたしがとばしたあなたが、ほんとの空に、うかんでる。

南三陸

森有正さんの教えという訳ではありませんが、やっぱり私も、ヒューマニズムとか、平和とか、自由とか、そういうところからスタートするのはまずいような気がするんです。今回の人災を含めた災害が、映画を撮り始めた私に、そのことをいやというほど突きつけます。例えば農夫にとっての自由とは、いろいろなものの犠牲の中に、いろいろなものの経験の果てに、いろいろなものの罪の終極にあるのではないでしょうか?南三陸の空を見上げながら、そういうことを思いました。

クランクインしています

ハトはどうしてこんなに魅力的なんでしょう。人と大地、人と空、空と大地、そして、いっそう、そういうものすらを超えたものとしてハトを撮れたらいいな。