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川の数

方丈記私記[平成]No.023(完結)

「コロナの感染者数」を数えるのに忙しくしている間にも、人は違う感性で東日本大震災から10という年月を数えていた。その10という数字をどのように捉えるのかは人ぞれぞれだけれど、私自身はがらがむしゃらに生きてきてちょっと感慨深くいて、令和3年の3月11日は特別な過ごし方をしたいような気がしたのだった

阪神淡路大震災の時は祖母が神戸で被災して「大変だ、大変だ」と私も現場に駆けつけカラ騒ぎしたけれど、あの日から積み上がっている年数は私の中ですでに白濁として定かではない(平成7年1月17日から冷静に数えれば26年が過ぎていると振り返ることはできる)。西ノ宮で生き埋めになった祖母が昨年100歳に達したことを(コロナ禍なのでオンラインで)親戚一同で祝ったけれど、もはや阪神淡路大震災は祖母の人生の中で数ある出来事のひとつとして処理され色褪せてしまっているのかもしれない。私も東日本大震災が起きてから数字を足していき、同じようにいずれはそれが記憶の中で薄くなっていくことは目に見えていて、でもそうなった時、私はどこでどんな生活を送っているのかと彼女の顔を見て不思議な気持ちになった。100歳とは言わないまでも60歳くらいになっていて、孫に還暦のお祝いをしてもらったりしていることもあるのだろうか。なんとなく、60歳まで生きることを前提にしてものを語ることの難しさを、今、感じている。どちらにしても「あれから何年」と311から数字を勘定しているのはジジツとして、正直なところ、度重なる災害や人災が降りかかるその都度それぞれを必死になって切り抜けるしか道はなく、まぎれて大震災の記憶は薄まりつつある。つまり、おそらくそれをジッカンしているからこそ、10という数字の節目においてどこでどう過ごそうかと改めて考えようとしたわけなのだ

そして、個人的な(内面の)揺れが他人の揺れに同調してしまう時間をあえて過ごすより、個人的な揺れは個人的な揺れとしてしっかりと感じていたいと思ったから、色々と考えて、震災直後に訪れた南相馬の喫茶ウェリントンでコーヒーでも飲みながらひとり過ごすこととした

「喫茶ウェリントン」ここにそう書くだけで感慨深いものが湧いてくる

映画を撮るための視察を兼ねて津波が襲った地域を車であちこち走破したのが2011年の春だった。相馬は、漏れ出る放射能による影響で立入禁止区域が網の目状に伸びていたためアクセスが難しかった。宮城県の方へとぐるっと迂回しつつ北から降りるようにしてどうにか立ち寄ることができたのだけれど、ちょうどお昼時なのに空いている飲食店はほとんどなくて(もちろんそうだろう、多くの住民が避難したわけだし観光客などいるわけはない)、それでもどうにか営業していた店が喫茶ウェリントンだった

一種独特な空気が充満していた当時の福島にあって、生活の匂いがするその喫茶店を見つけ吸い寄せられるように中に入って、私は、救われる思いがしたのだった(※1)

それから、私は喫茶ウェリントンを再訪できずにいたからほぼ10年ぶりにお父さんが入れてくれるコーヒーを飲むことになるはずだった。だった、と書くにはもちろん理由があって、結論から言うと店はもうなくなっていた。同じ場所には、真新しい南相馬市民文化会館が建っていた。現地でネットを使って調べると、立退があった後も喫茶店は一度位置を変えて営業を続けたようだけれど、2年前にその店も(別の人が経営する)カレー屋に取って代わられた。私はもっと早くに再訪できなかったことを小さく悔いたけれど、なくなってみて、10年という年月の長さを改めて思い知った。あの時は喫茶ウェリントンだけが店を開けていて、今は、あらゆる店が営業しているというのにウェリントンだけが姿を消してなくなっている。10年前、私が「ウェリントン(※2)には行ったことがあるんですか?」と女将さんに問うと、顔を赤らめながら「行ったことがないんです。でもいつかは行ってみたいと思っているの」と返事をしてくれた。今、喫茶店をやっていた夫婦がどうしているのかはわかりようがないけれど、喫茶店をやめていの一番でウェリントンへと旅したことを他人事ながら期待する。そして、許されのであればいつか彼女たちの旅の話を聞いてみたいと願う。今、コロナ禍で、海外へと行くことのハードルは随分と上がったように感じるからなおさらだ

それはそれとして、「2時46分」を時計の針が通過するその瞬間を過ごすべく場所の当てがなくなって、私は、途方に暮れた。海でも見ながら、とも思ったけれどそれはそれで私の揺れとは違う「波」に同調することになるかもしれず、どうしようか、と考えあぐねながらとにかく海の方向へと車を走らせていると、桜井古墳群なる遺跡に出くわしたのだった。時刻も迫っていたから「せっかくの出会いなので」と、迷わず私は前方後方墳の上に立った

長さが75メートルある東北最大級の墓の上に立つと、四方がしっかりと見渡せて「ここでよかった」と胸を撫で下ろした。西には喫茶ウェリントンがかつてあった町の賑わいが感じられ、その先に阿武隈山地が臨めた。南には別の町の賑わいがあり、北には新田川とそれを利用した水田が広がっているのが見えた。そして東には川が流れ着く先の太平洋がかすかに見えた。いや、つまり、人の営みに関わる全てのものがここから見渡せたのだった。私は、新田川の流れを見ながら茫々とした意識で、土地に、ほんのひとときに現れるひとつの生活の儚さ、みたいなことを感じていた。喫茶ウェリントンは私の世界に現れて、そして幻だったかのように綺麗さっぱりと世界からなくなった。きっとどの時代のどんなものも、誰かが軽く瞬きをするような感じで、あることとなり、そしてなくなる

しかしそう感じる私は4世紀に建てられた墓の上に立って、古代の人も見ていた新田川を現代に見ている。それは紛れもなく同じ川で、その流れは絶えずあったはずだ。しかし、くどいようだけれども、そう、そこを流れる水はしかしもとの水ではない

「ウーン」と方々から一斉に汽笛のようなサイレンの音がこだまして、私は、きっかり令和3年3月11日2時46分に、我に返った。「我」に返った私はその時、でも、誰の目でもいいような目を瞑り黙祷を捧げ、誰の耳でもいいような耳で風や鳥のさえずる音に混ざるサイレンを聴いたのだった

・・・・・・・・・・

今まで平成に起きた災害や人災による死亡者数や被害の数を記してきた『方丈記私記[平成]』だったわけだけれど、最後を締め括るのにそれらとは違う「何か」を数えたくなっていた私は、「喫茶ウェリント」までの道程で渡った川の数を数えることとしたのだった。そのいたく個人的な記録を残し『私記』を終わりにしようと思う。相馬に向けて益子町を出発した私が渡った最初の川は隣町を流れる逆川で、そこから数えて84の川を渡り南相馬に辿り着いた。ひとまずどんな太さの川も「ひとつ」と数えたけれど、見落としたものもひとつやふたつあるかもしれない。世の中に名前のつかない川があるのか知りもしないけれど、渡った川で名前を知ることができたものをここに書いておく(本流、支流を含めて複数回渡った川の記載は1度とする)

逆川、那珂川、大沢川、緒川、玉川、久慈川、浅川、山田川、里川、入四間川、十王川、小石川、花貫川、多々良場川、関根川、塩田川、大北川、江戸上川、里根川、蛭田川、豊川、鮫川、渋川、藤原川、釜戸川、藤原川、矢田川、滑津川、夏井川、横川、小久川、大久川、折木川、浅見川、木戸川、井出川、富岡川、熊川、高瀬川、請戸川、宮田川、小高川、前川、太田川

川の数を数えることなどにもちろん意味はない。意味などないけれど、その意味のなさに安堵している私が確かにここにいる。あらゆるものに意味がないことを受け入れつつ生を開いていくのか、それとも何かしらの意味が得られることを信じてゼロから数字をひとつひとつ積み上げていくのか、そのふたつの道はそれほどまでにも違ものなのか。そもそも、数字を積み上げることを受け入れるそのことこそが生活ということなのかもしれないとさえ思えば、私は、この世に生を受けていったい何をしているのだろう、自分のことだけれど、まったくわからない。わからないからひとまず数字を数え上げるけれど、やっぱり何度も挫折して「無理だ」と私はゼロへと落ちていく。ゼロへと落ちていく時、私は、、、

その時、心はさらには答えなかった。そうであるならば、、、

今はただ、答えない心のかたわらに、つかの間の舌のちからを借りて、心のあずかり知らない南無阿弥陀仏を、三べんほど唱えて、この暁(あかつき)の随筆を、静かに終わりにしようか。

これは、鴨長明が『方丈記』を締めくくる時に書いたことである

そして『方丈記私記[平成]』に、私が最後に書いていることである

(※1)その時のことを『喫茶ウェリントン』という文章で「ミチカケ」に発表しました。noteにもアップしているのでもしよかったら読んでみてください

(※2)ウェリントンはニュージーランドの首都

火と水と

方丈記私記[平成]No.017

言語矛盾かも知れないしずいぶんな放言になる恐れもあるかもしれないけれど、万物の根源が「水」であるのか「火」であるのかというその「根源」もしくは「根拠」について、実は、タレスもヘラクレイトスもそれほど執着していなかったような気がする。むしろ、火に当てられ水を沸かすことを可能とする「器」であるところの「万物の~」と言うその時の<感覚>もしくは<意識>の発露にこそ、彼らはこだわったのではないだろうか。だからこそ「万物の根源は数字である」と言い、根源(アルケー)であるところの数字の方に執着したピタゴラスに対してヘラクレイトスは烈火の如く怒ったのだと思う。そして、その器であるところの<感覚>なり<意識>というものの「深さ」がベースとしてわれわれに備わっていることは確かなジジツで、なぜなら、タレスでもヘラクレイトスでも誰でもいいけれど「万物の~」と言うことが可能となった瞬間に語られる「万物」という意識の中には、わたしもあなたも、土も木も風も、虫も粘菌類も、爬虫類もシダ植物も細菌も、全部がぜんぶ含まれているからである。その意識が存在する場所では時間も空間も無化されているから、つまり、2500年前にタレスやヘラクレイトスが「万物の~」と語ったその瞬間の彼らとわれわれはまさに垂直的に「万物」の中にあって、あっちからこっちという指向性もなくまるっと一緒くたになっているのだ。そして、その意識の中で全てのものがまるっと存在する場所のことを、時に、われわれは「誰のものでもない場所」とか「何処にもない場所」とか、はたまた「ユー・トピア」と言ってきた

「文学は、自らそれが何であるのかを言うことはできません。ただ繰り返し繰り返し千年以上にわたって自らをいかがわしい言葉に対するアンチテーゼ、と見放してきました。実生活はいかがわしい言葉しか持っていないからです。ですから文学はそれに対して言葉のユートピアを対置させてきたのです。この文学は、たとえそれがどんな時代とそのいかがわしい言葉に準拠しているとしても、絶望しながらこの言葉に向かって歩いてきたが故に讃えられるのであり、人々の誇り、希望となるのです(中略)その予感された言葉に向かう方向としての文学を書き続けなければならない」

こう語ったのは、自らはルーマニアの強制労働所をかろうじて生きのびたけれど両親をドイツの強制収容所で失った世紀の詩人、パウル・ツェランそのひとである。ツェランは、戦後においてもなおはびこっていた反ユダヤ主義的雰囲気の中で、誰のものでもなく何処にもなく境界のない世界に、詩、でもって向かっていった

ユダヤ人であるツェランと意識を共にした数少ないひとのなかに、オーストリア人であるインゲボルグ・バッハマンという詩人がいた。このふたりの間で交わされた書簡が、今に生きるわれわれには痕跡として残されている。ふたりは、古い言語がつくった境界(時代)を突破するための「新しい言葉」を、新しい意識でもって触れられる「場所」を、戦後の世界に共に求めた。時に励まし合いながらユートピアの光の中で詩作を通して生涯その実践をし続けた
第二次世界大戦の傷跡が残る占領下のウィーンで出会い、そして互いに愛し合うようになるまでにはたいして時間がかからなかっただろう、その納まり方は、まったくもってシゼンなはずだった。しかし、ツェランは、新しい世界の新しい言葉を探すよりもその遥か前に、古い言葉によって、制約の総体としての言葉によって深い傷を負ってしまっていた。彼の心と身体には、深々と古い傷が刻まれていた。そしてその傷は、ツェランを古い世界に束縛し続けるには十分すぎるくらいの、静まらない、鈍い痛みとなってずっとずっとそこに在り続けた。男であるのか女であるのか、ユダヤ人であるのかドイツ人でるあるのか、ヨーロッパなのかアジアなのか、家庭があるのか独り身なのか、傷を負っているのかむしろ時代の恩恵を受けているのか、つまりそういった世界を分かつもの、断つもの、境界、世界を分断するその溝に、穴に、終始オトコはトラワレ続けた
自分がナチス党員の娘として不自由なく生まれ育ってきたというジジツもまたツェランを苦しめていることを知っていたバッハマンは、詩人として結局のところ言葉では超えることができないものがあるという行き詰まりにあった男を、けれども辛抱強くこう励まし続けた「さぁ、私たちは(新しい)言葉を見つけましょう!」と。そして、深く包むような眼差しでもって、愛、にもまた新しいカタチがあることを男に示し続けた。男が死んでからもいっそう頻繁に、さらに切実に、、、

ツェランは1970年(昭和45年)に、水によって死に(入水自殺)、後を追うようにバッハマンはその3年後の1973年に、火によって死んだ(寝たばこによる重度の火傷)。物理的に火と水は出会わない。それと同じように男と女はシゼン現象そのまま、互い、はじきはじかれてこの世界から消えていき、消えていったその先でも交わらずにいるのだろうか?

ツェランとバッハマン、そしてバッハマンとツェランの妻との間で交わされた書簡が『バッハマン/ツェラン往復書簡 心の時』(青土社)としてまとめられていることは先に書いた。600ページに迫る大著だけれど、この本には、ツェランとバッハマンとの距離、ツェランとツェランの妻との距離がそのまま、もう、触れられぬ、という痛みとして、残されている。世の中のひとに「ひと」が見えるのは(むしろひとばかりがみえるのは)自分とひととの間に距離があるからだけれど、ツェランが死に、バッハマンが死んで距離が失しなわれて、それでも、いや、だからこそ、そこに(本の中に)愛だけがぽつねんとあるのが、わかる。その微かなぬくもりが読後の「わたし」に広がってくる。数々の詩や優れた文学を世に送り出した彼らだけれど、ふたりにしてみては、「新しい言葉」というものをついぞソウゾウすることが出来ず失意の中に死んでいった、ということになるなのかも知れない。しかし、この、行ったり来たりした意識の痕跡としての文学に、「男の意識」と「女の意識」はたまた「ユダヤの意識」と「それ以外の民族の意識」という制限をゆうゆうと超えていっているそのサマがぼわぼわと滲んで見える。そして、ふらふらと世界の全体がにょろにょろと顔をのぞかしているのがカンジトレル。隠れたはずのピュシスが、彼らが見失った愛が、今、ここに、ほら、と顔をのぞかしているようである。そして、本を閉じると、バッハマンがツェランに、さあ、と促し続けた言葉がそのまま今に生きるわれわれを促す言葉として、ぼーぼーと聴こえくるようである「われわれは、われわれの時代の(新しい)言葉を見つけましょう!」と

そう、私には、聴こえる

そう聴こえると思うのは、ややロマンチックに過ぎるのかもしれない。だけれど、彼らが死んで触れられるものとしての存在から離れていったその場所がわれわれにはすっぽりと隠されているのであるから、彼らが今、ふたり、水となり火となってそれでもなお寄り添っている、という風に考えることもできるし、考えないでいることもできる、ということなのだ。「同じ河にわれわれは入ってくのでもあり、入っていかないのでもある、存在するのでもあり、存在しないのでもある」ヘラクレイトスは2500年前にそう言った。そして、その1700年後に、同じ(ような)河の流れを見ながら鴨長明は、自分の渇望を断ち切るために出家した。ひとはひとの権力に対する執着を汚ならしいものを見るみたいに見るし、そのくせ彼のようなひとのことを敗北者とらくらくと烙印を押す。けれども、そんな烙印を押された彼はひょうひょうと、誰のものでもない場所をただただ誰の意識でもない意識で見ようとしていただけなのかもしれない、と、わたし、なんかは思ったりする

隠れることを好む

方丈記私記[平成]No.016

紀元前500年前にヘラクレイトスが「万物の根源は火である」と言うそのさらに前に、タレスという人が「万物の根源は水である」と言ったそうだ。ヘラクレイトスはタレスの死後に生を受けているから両者が言葉を交わしたことはないはずなのだけれど、こうやって並べて記述されたそのとたんに「場」が生成され、まるで彼らが言葉を交わしているように思えるから不思議である

万物の根源を火に見たヘラクレイトスは、こんなことも言っていたようだ、「ピュシス(自然)は隠れることを好む」と

ピュシスは(好まれて)隠れているということで目にも見えないから手に負えず、けれども「それ」が目に見えてくるのを待って「そこ」に留まるのも退屈だから、とわれわれは待つのを止め「そこ」から新大陸を求めるように勇んでススンできた。そして今に至る道を選んだわけだけれど、選んだ道の先にあったのがロゴス(理性)だったのか、観念主義だったのか、主観主義だったのか、経験主義だったのか、実存主義だったのか、近代主義だったのか、そんなことに私はあまり興味がなくってむしろ長いなっがい道程を振り返りながらもわれわれの遥か後ろにおいて置かれた「そこ」こそが今たまらなく気になっている

私が住む森の中で、たまたま木が倒れる瞬間に立ち会ったことがある。特に風が強かったわけでも、湿った雪が枝葉に積もっていたわけでもなかった。一見して特に外因があって倒れたわけでもないその木は、人間の年齢でいうと幾つくらいになったのだろう、他の木の影に入るような幼木ではなかったし死に絶える直前の老木でもなかった。いつだって倒れる可能性はあったにしてもその時に限って倒れる理由などあったようには見えなかった。何年も風雨に耐えてきて、それは、私には見えないタイミングを待って、倒れた

ピュシスが隠れることを好むのなら、人間の私にはピュシスは「死」を隠しているように思えてくる。だってジッサイに人間として生きるわれわれはだれひとりとして死を、死ぬというコトを知らないのだから

またしても映画の話になる。人の、生きていることと死んでいることの境、その境に流れる川をただ静かに見つめるような『眠る男』という映画が平成8年に公開された。映画の主人公である眠る男タクジは文字通り植物のように寝て横たわったままである。私が森の中で見た木は倒れただけで死んだわけではなかったわけだけれど、それと同じことで、タクジもまた寝たままに生き続けている。映画の冒頭部のシーン、水平に眠るタクジという男のすぐ上に、花をつけた白梅ととても大きな満月がぽっかりと浮かんでいる。ひとはこんなにも自然物と近いのだよ、と観ている者はそのジジツを優しく伝えられる。眠る男の眠る部屋、いや、ルームと呼ぶにはかなり躊躇ってしまう、ただ「場」と名指すしかないその場所に扉や窓はひとつもついていない。限られたものと限りないものとの境としてではなく、限りないものと限りないものとの境としての身体が、扉としてある。しかもその扉は、目や鼻や口などの感覚器官がそうであるように、つねに外部に対して開け放たれている。タクジの耳はずっとずっと自然の音を聞いていて、タクジの鼻はずっとずっとその匂いを嗅いでいる。映画の始めから終わりまで絶え間なく川の流れる音が聞こえていたような気になるほど、画面に水がゆき渡っている。そして、私は、というと、それら一切合切をタクジと共有したのだ、と映画が終わり、音が途絶えてから知る。映画を観ている私こそがタクジだったのだ、という気すらしてくるのだったけれど、でも、そういったことですら、つまり川の流れる音を聞いたりそれらから何かを想起したりすることすべてが動物である「人間」のすることだ、ということにしみじみと行き当たる。私は確かにタクジ(自然物)だ、でも、私はタクジ(植物)ではないのだ。映画は、私を突き放すようにして動物である「わたし」にとどまるよう呼びかけているようでもある

われわれは、タレスやヘラクレイトスの時代からいち、に、さんと数えられる歴史の時間よりももっともっと長い時の間、動物であることを結局はやめたりはしなかった

(好まれて)隠れたピュシスがでもいつでも「そこ」にあることを、タレスやヘラクレイトスは動物であるところの「身」をもって知っていた。いや、われわれだって動物であるところの「身」をもっているわけだから本当は「そこ」にあることを知っているはずなのだけれど、彼らとわれわれとの間に深い溝があるとすれば、それは、知っている、というそのことを彼らがいっときも忘れることがなかったのに対して、われわれの方と言えばもうずっと長いこと(生命の歴史から考えればほんの束の間なんだけれども)、その知っている、ということをすっかり忘れてしまって「ここ」にある、というジジツに違いない。そもそも万物の根源へと遡行するその意識が万物に包まれていることを知っていなければ、「万物の~」と言いはじめることなど出来ないはずで、「万物の根源はエネルギーである」とわれわれが言う時に、われわれは、それをジッサイには「考えて」もいないしましてや「感じても」いない。つまり「万物の~」と語り始めて何かを知ったようなフリをするわれわれの「身」は万物の側にあるのではなく、あくまでも「わたし」という主体の側にある。そして、わたしが主体の側にあるというそのことに関しては、なぜだか熱に浮かされたように強く主張し、そして、信じて疑わないのだ

交換物

方丈記私記[平成]No.014

2018年の暮れに近い頃、私の関わるドライブイン茂木という場所でふたつのイベントが行われた。一つは『草のほほ』と名付けられた居相大輝さんの衣の展示(pejiteとの共同開催)、もう一つは『北風と太陽』と名付けられた河合悠さんのパフォーマンス。前者では、まぶしいばかりの光が満ち、文字通り自然と人とがほぼ等しくその日の光の中で戯れている、そんな景色が広がった。後者には、遊びほうけた子供が「いっしょにやろうよ」とまだ燻っている遊び心にまかせて薪で火を焚き暗闇で悪ふざけをしている、そんなおかしさがあった

「この世界は、神にせよ人にせよ、これは誰が作ったものでもない。むしろそれは永遠に生きる火として、決まっただけ燃え、決まっただけ消えながら、常にあったし、あるし、またあるであろう。万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である」

こう主張したのは「万物の根源は火である」と説いた紀元前500年頃に生きた人、ヘラクレイトスである。ヘラクレイトスが言うように、わたしもあなたも火を根源としている。そして、わたしとあなたは絶えずなにかを交換している。わたしと自然は、と言ってもいいと思う。宇宙がたった一回のビックバンから出来たとすることや、エネルギーの保存の法則(エネルギーが運動エネルギー、音エネルギー、熱エネルギーなどに移り変わっても、エネルギーの量は不変であるとする法則)のことを考えると、うんうん、とうなずくばかりである。例えば、平成最後の年末に光りに溶け込むようにして『草のほほ』が執り行われ、闇に紛れるように『北風と太陽』が起きたそのふたつの出来事も、けっして誰かが作ったものではなかったし、まるで手渡しで交換されたかのごとくわれわれの前に差し出された。そして、なによりもその両者に指差せるような境界線は存在しなかった。それらは、重なり、転び、こぼれ、にじむように結ばれていた。エネルギーと呼ぶしかないような「なにか」がその場で生成されていた。かと思えば次の瞬間、こちらの意志とは関係なくあっさり消滅していった、いや、なにかにトッテカワラレテイクのを感じた

振り返って、やっぱり火だけが常にそこにあったように思う(つまりは、闇も常にそこにあったということ)。光と闇がもつれるようにして交換されているその姿を、われわれは目にした。仮に、光と闇のその境を私に指差して示す者がいたとしても、きっと指差されたその場所はある人には十分にまぶしく映え、またある人にはすっかり暗さに落ちきって見えないはずだ。どちらにしても万物はあっちからこっちへ、こっちからあっちへと絶え間なく流転している

この世界に存在するすべてのものは一瞬たりとも静止していることはなく、絶えず生成と消滅を繰り返している、そう主張したのは鴨長明であり、ヘラクレイトスであった。ヘラクレイトスは、鴨長明と同じく世間が疎ましく感じられた人のひとりで、人里離れた山に暮らしの元を築き、草や木の実を食べて過ごしながら森羅万象に心を割いた人だった

辻風

方丈記私記[平成]No.010

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

鴨長明の名前を知らない者でも、彼が書いた『方丈記』という随筆の題名を知らない者でも、日本人であればもしかしたらこの言の調べを一度は耳にした事があるのではないか。そしてこれはまだ『方丈記』の冒頭で、であるが故に読み始めに満足感がさらりと高まり実際に本を読み進めてみた、という人は少ないのかもしれない。斯く言う私も『方丈記』を映像にしたいと10年以上も前に思っていたのにもかかわらず、それを通読したのは『益子方丈記』という短編映画を撮った今から2年くらい前のことである。そんなイイカゲンな私が、なんで「方丈記私記」なるものを書いているのか書く側から恥を曝け出しているようだけれど、今はまだ筆が止まる気配がないから書き続けてみたいと思っている

16万の避難民のうち半分以上のおよそ11万の人がもと住んだ福島の土地へと還っていったと書いた。逆の書き方をしてみると、5万の人が7年経った今もフルサトへと還ることができないでいる、ということになる。さらに言うと、ゲンパツが爆発して指定された避難指示区域に住んでいた8万の人のうち、帰宅困難区域と指定されもはや還る見込みがなくなった2万を超える人は、結果、避難先で「安定した住まいを得ている」とされ、還れない5万というい人の数には含まないのだそうだ(NHKデータナビより)

少し詳しい数字を経済産業省のHPから引いて書く。南相馬に2人、富岡に3,953人、大熊に10,599人、双葉に6,142人、浪江に3,118人、葛尾に116人、飯館に257人の合計24,187の数の人は今、新しい場所で「安定した住まい」を得たことになって、生活をしている

建築の仕事を始めてなんだかんだ20年近くが経つ。大学を卒業した当初と較べると、現在の建築の仕様はかなり様変わりした。束基礎や布基礎が当たり前だった時代は過ぎ、今では地面を水平に覆うベタ基礎が住宅でも標準となった。部材と部材を繋ぐ金物の数は年々増え、気密はますます当たり前に求められるようになっている。確かに、今建つ家を見ていると、明日、風が吹いて倒れてしまうような家でない事はれっきとした事実のように思える。いや、しかし、と書くことには私にだってためらう気持ちはある。けれども、ここ数年に限って考えてみても、強固に建てた家が結果として、流され、燃え、壊れ、(人為的に)壊されることばかりが目につくのだから、いや、しかし、という気持ちにもなるのはそれなりに自然のことだと個人的には思う。311の被害は益子でも生々しかったけれど、そのほぼちょうど一年後、私の家の表通りを竜巻がぐごごごごと物をまき散らしながら過ぎていった。そう、本当にそれは一瞬のことだった。長明は、治承の辻風を見聞きして、「かの地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる」(地獄の業の風もここまで吹くことはないだろう)と書いている。人の家の駐車場がそのまま畑の真ん中に飛ばされひっくり返り、家や車のガラスがこなごなに割れ、ねじり倒されたケヤキに押しつぶされた家も散見できた。私の家は逆に密集した木に守られたけれど、子供は、あまりのことに目をまんまるくして泣き叫んだ。そして、この一帯で、竜巻の被害を受け補修を諦め新しく建て替えた唯一の家こそが、直前に竣工したばかりのぴかぴかの新築の家だった

冒頭に引用した長明の一文はこのように続く

よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。

われわれは、石造建築物の文化ではなく木造建築物の文化に育つ。石とは違って、木は湿気の中で早くに朽ちる。素材として元の姿をそのままに保つ時間/耐久性も石と較べて低いと言える。しかし、その分、素材としての再生は早く、われわれはその特質を理解し、家を、都市を、半ば壊れることを想定して築いてきた。栖(すみか)は、河を構成する水や速やかに老ていくわれわれ人と同じく、よどみに浮ぶうたかた(泡)と一緒だ、と長明は書いた

火災、地震、竜巻(辻風)様々な災害を実際に体感し、政治的な権力争いからはじき出され、ついぞ安定した仕事を得ることができなかった鴨長明は、彼なりの「安定」した住まいとしてタイニー(小さな)ハウスを建築した。『方丈記』の研究資料を読めば、長明が建てた方丈の家は今で言うリヤカーのようなものでの移動が可能だったみたいだからモバイルハウスでもあった。長明は、今でこそハヤリとも思われるタイニーハウス、モバイルハウスにいち早く目を付けた人物と言える。いや、目をつけたというよりも、長明自身が、小さく移動可能な家であったからこそ安住できた人であった。くどいかもしれないけれど、大切なので繰り返す。長明が、「強固」なことよりも「脆弱でない」ことを望み、そういう家を建てたのだ。明日、強い風が吹いて倒れてしまっても再建が安易だということを知ることで、それまで抱えていた不安を解消した、もしくはしようとした

参考までに2012年5月6日に起きた竜巻の被害状況を以下に記しておく。益子町では死傷者が0名ながらも負傷者7名、家屋の全壊7棟、半壊26棟、一部損傷124棟。最も被害の大きかったつくば市では死傷者が1名、負傷者37名、家屋の全壊93棟、半壊197棟、一部損傷364棟(東京管区気象台より)。また、栃木で二カ所と茨城で一カ所、そして福島で一カ所発生した竜巻はもちろん同一のものではなく、それらは同時多発的に起きた

 

美しい言葉

方丈記私記[平成]No.006

地震と津波による被害について「方丈記私記」に記してから、次は原発事故の被害について書く必要があったけれど筆が進まなかった。被害の全容が見えないという事実もあるし科学的な知識の不足もまずはあるけれど、それよりも放射能にまみれた新しい世界の中で営まれる生活のことや感情を言い表す言語が現状では全く足りていないのだ。私は、震災後に映画『ハトを、飛ばす』の製作と随筆『土と土が出会うところ』をミチカケという地方紙に発表してきたけれど、これらはまさにその新しい世界に形を与えるための言語を自分の身体でつくっていくという試みであった。しかし、そうした後もいざ手持ちの言語で具体的に原発事故の被害について語ろうとすると、やっぱり言葉が足りていないという事実にいちいちぶち当たる。言語、というのは社会の中で共有されない限りにおいて言語とは呼ばないのだから、ひとつの映画、ひとつの本、ではどうにもならないということを痛感するけれど、その営みをやめようと思わないのは、われわれが使う言語の一部は(社会からではなく)文化からにょきにょきと発生して欲しいと思っているからだ

例えば、ということではないけれども「原子力の平和利用」という言葉は美しい言葉だなぁと思う。キャンプ場で焚き火をして暖をとるときに「火の平和利用」をしているなんてことをわざわざ言わないことを考えると、ますますこの言葉の美しさが際立つ。つまり、この美しい言葉が「原子力の(殺戮のための)軍事利用」と相対する言葉だと思っていいとしたら、「原子力の平和利用」という言葉は、原子力をより軍事的に利用をしていくためにぜひとも生み出したかった対概念だったに違いない。つまり、社会の中で頑張って頑張って捻り出された言葉ほど気持ち悪いくらいに美しいもので、(概念として正しいか医学として必要かは別にして「脳死」という言葉にも共通したすごみがある)その反対に、生活の中で使われる火についてわれわれが語るとき、それらの言葉は当たり前にすぎて美しくも何ともない

ただ、火そのものが生活の中から追いやられて久しいから、その当たり前の言葉ももうじき消えるのかもしれないけれど。私の住む益子という場所にはまだ囲炉裏の文化がしぶとく残っていて、その囲炉裏を挟んで語られる言語はそれを経験している者同士のなかにある

さて、その平和利用された原子力が爆発し、多数の被害を生んだのは2011年の3月である。地震によって発生した津波が福島第一原子力発電所(以下フクイチ)を襲った15時42分に、フクイチは電源を喪失している。そして、この電源の喪失がその後の爆発への全ての始まりだ、と東京電力(以下トーデン)は主張するが、世界中の原発事故の有無を監視するスウェーデンの施設が、11日の地震直後にキセノンという物質の濃度上昇が1,000倍に達した事実を指摘している。原子炉が壊れて最初に大気中へと放出される物質がキセノンで、その濃度が急激に上昇を示し始めた地点がコンピューターの解析でちょうどフクイチのある場所、そしてその時刻は原子炉の爆発が起きるずっと前の11日17時50分頃である、と同施設は導き出している。そもそも数々の欠陥が指摘され続けてきた原子炉マークⅠ型は、津波による被害(想定外)ではなく、地震(想定内)によっていちはやく崩壊していたことになる

トーデンは地震が起きた翌日の12日午前11時の記者会見で、爆発によって放射性物質が大量に飛散したときの避難方法を住民に伝えるよりも先に計画停電の可能性を示唆した。そして、その発表の少し後の15時36分にフクイチの1号機は水素爆発を起こす。14日には3号機が爆発し、続いて15日に4号機が爆発した

態度表明

方丈記私記[平成]No.005

統治権力の中心が朝廷から武家へと劇的に移行した鴨長明の時代は、地震、大火、竜巻、飢饉などの災害も頻発し、政治における猟官運動、神官や僧侶の地位争い、さらには法然、親鸞、日蓮らに対して行われた思想弾圧に至まで、今よりも絶望的な状況だったと言えばそうかもしれない。しかし、混乱という意味では、現代もそうとうなものだ。長明は、数々の災害現場を目の当たりに(経験)したが、原子力発電所の爆発およびその放射能被害は当然の如くに経験していない。つまり、われわれは、長明が経験していないしごく現代的な問題にぶちあたっているわけであり、きっとこれからも、あたらしい災害/人災にぶちあたり続けるであろう

けれども、長明(鎌倉)や堀田善衛(昭和)の時代とともに共通したこととして、混乱を引き起こした政治が結果責任を問われそれに対して自らケジメをつけるということは一つもしたためしがなく、この度の原発事故についてもそうであった。そして、それを許し続けている、われわれ、が過去にも現在にもいる。堀田氏はこのことといわゆる「無常観」とはなんの関係もないことであるとしつつ、われわれを根底から捉えて離さない無常なる感覚は十二分に政治利用されてきたことを指摘したし、今も、そのことに変わりはないだろう

私が、映画「益子方丈記」の製作を通してやりたかったことといえば、もちろん、「わたし」という主体を表出させることではなかったし、ましてや「方丈記」における「無常観」の側面を強調したかったのでもなかった。堀田の言葉を借りれば「われわれの思想生活の根源に生きて横たわっているものをともにえぐり出して見る」ためであり、そして、戦争に負けて期待された「あたらしい日本(堀田)」の実現が遠の昔に挫折した今となって、長明のように田舎へ籠り自己一身に絞って庵を結ぶのでもなく、なにか数段飛び越えて「みんなの家」なるものを被災地に建設するのでもなく(このように書くと、どうも日本人的な感情として私がそれらを否定しているかのように捉えられがちだけれども、そのつもりはない)むしろ、われわれの骨の髄にまで食い込んでいる無常なる感覚に「わたし」の中でしっかりと向き合いつつ、あたらしい「あたらしい日本」ではなく、あたらしい「われわれ」が生起してくるのを(長明が持ち得なかった)「眼」と「耳」を携えて、待っている、という態度をひとまずは表明することであった

言葉の中

方丈記私記[平成]No.004

震災後、床に散らばった本ひとつひとつを本棚に入れなおしたけれどもしばらくはちっとも読む気がしなくって、けれどもふと背表紙が光って感じられた7月、久しぶりに手に取って読み始めた本が森有正のだった。リハビリをするようにたどたどしくも指でなぞりながら読み進めたその69ページ目に「われわれの」と呼ぶことができる言葉がそこにあった。私はのこのことこの言葉を求め探し歩いたのではなく、そもそもに、この言葉の中で立ちすくんでいたのだ

この間、あるフランスの若い女性が尋ねて来た。大学内ゴルフ場内のレストランへ案内して話をした。緑にかこまれた食堂では、何人かの人々が静かに食事をしていた。生粋のパリ育ちのこの女性は数年間を日本で過したのである。私達はよも山の話をしていたが、やがて話は日本における生活、ことに東京の生活のことになった。どういう話のきっかけだったか忘れたが、というのはその時かの女が言ったことばに衝撃をうけて、何の話の中でそうなったのかよく記憶していない。かの女は急に頭をあげて、殆ど一人言のように言った。「 第三発目の原子爆弾はまた日本の上へ落ちると思います。」とっさのことで私はすぐには何も答えなかったが、しばらくしても私はその言葉を否定することが出来なかった。それは私自身第三発目が日本へ落ちるだろうと信じていたからではない。ただ私は、このうら若い外人の女性が、何百、何千の外人が日本で暮らしていて感じていて口に出さないでいることを口に出してしまったのだということが余りにもはっきり分かったからである。かの女は政治的関心はなく、読書も趣味も友人も、ごく当り前の娘さんである。まして人種的偏見なぞ皆無である。感じたままを衝動的に口にしただけなのである。
胸を掻きむしりたくなるようなことがこの日本で起こり、そして進行しているのである。
かの女がそう言ったあと、私は放心したように。大学構内の木々が日の光を浴びて輝くのを眺めていた。 (『木々は光を浴びて』森有正)

この言葉が書かれたのは1970年の11月。本を手にした私の心臓がばくばく鳴って足が震えたのが2011年の7月。そして、まさに、胸をかきむしりたくなるようなことがこの日本で起こり、そして進行しているのである。われわれはそのことをつかの間、忘れていただけなのだ

揺れ

方丈記私記[平成]No.003

東日本大震災が起きたそのとき、私は、文字通り揺れのまっただ中にいたからどこが震源地なのかと東を向くことも西を向くことも頭に浮かばず、ただただ、建てたばかりの家が崩れぬことを身体から絞り出すような気持ちで祈った、その祈ったという感情を、今のことのように思い出す

あの日、妻の腕の中には1歳かそこらの幼子がいて、その姉は保育園に行ったまま姿はなかった。揺れは何分か続き、おさまったと思ったらまた大きく揺れること数回、幾度そんなことが繰り返されただろうか、外に置いてあったテーブルが割れた地面へと吸い込まれていく様や、木々が揺らされ巻き上げられた花粉が空を不気味な色に染めていく様を半ば他人事のように眺めながら、ただただ、建てたばかりの家が崩れぬことを祈った

今、ここが揺れている、、、他でもなくここが揺れているというのはどうしたって「わたくしごと」になるのだろう。けれども、想像を越えた力が地面を動かしているのを目の当たりにすると、事が「わたし」の事であると根拠づけるはずの私の身体の小ささが強調されてしまって目の前で起きているほとんどの事が、私事ではない他人事として感じられてしまう

自然の声が聞こえる、万物と私とに境はなく全て一体である、と言ってしまえる可能性に対する日々の疑いのなか、地球という惑星の上で木も土も家も私も等しく揺れ踊っているという全体性を伴った他人事のような感覚は、どこからやって来たのか。しかし、であれば、激しい揺れのなか、他人事のように笑けてしまう揺れのなか、一神教を信ずるわけでもない私が自己中心的に祈った対象として私ひとりの神はどこからやって来たのか、祈った「私」はどこから来たのか

あの日に感じた私と「わたし」、世界と「せかい」とのズレが、今、とても気になる

さて、私もあなたも感じた揺れ、そして揺れた事との物理的な距離は、客観的に以下のように整理されている

2011年3月11日に起きた東日本大震災の震源地は三陸沖であり、マグニチュードは9.0。最大震度は宮城県の栗原市築館で7、遠くはなれた鹿児島県でも震度1を記録。そして、<主だった>地域の震度は以下の通り

6強:宮城県塩竈市、福島県国見市、茨城県日立市、栃木県真岡市。6弱:宮城県石巻市、福島県郡山市、茨城県常陸太田市、栃木県芳賀町、岩手県一関市、群馬県桐生市、埼玉県宮代町、千葉県成田市。5強:宮城県気仙沼市、福島県白河市、茨城県常陸大宮市、栃木県益子町、岩手県釜石市、群馬県高崎市、埼玉県熊谷市、千葉県香取市、青森県八戸市、秋田県秋田市、山形県米沢市、東京都荒川区、神奈川県横浜市、山梨県忍野村、、、、、(気象庁HPより抜粋)

経験

方丈記私記[平成]No.002

「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明『方丈記』の鑑賞でも、また、解釈でもない。それは、私の、経験なのだ」(堀田善衛「方丈記私記」)

この文章を堀田善衛は「方丈記私記」の頭に置いた。私も、そのままこう書いておく

私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、鴨長明「方丈記」もしくは堀田善衛「方丈記私記」の鑑賞でも、また、解釈でもない。それは、私の、経験なのだ

さて、なぜ今「方丈記/方丈記私記」なのか。そんなことはわからない、というのがその答えだけれど、そもそも東日本大震災が起きてから「方丈記」が気になり始めたわけではなくて、「方丈記」の映画化は、映画「ハトを、飛ばす」と同様に東日本大震災の前から考えていたことなのだ。つまり、「ハトを、飛ばす」と「方丈記」のことをつらつらと考えている最中に、私は、東日本大震災を経験した

私が経験した東日本大震災の前に、私を含めたわれわれが経験した東日本大震災のことをまずは記載する

平成23年に起きた東北地方太平洋沖を震源とする地震のことを、現在ではおおむね東日本大震災と呼んでいる。発生した月日から311と呼ぶこともある。アメリカで起きた同時多発テロが911と呼ばれたことに起因していると思われるが、これは、この事件が人々の脳裏にひどくこびりつていることを物語るだけなのかもしれないけれど、地震によって誘発された原発事故という人災の側面と重ねられている可能性もある

被害を数字で計ることはもともと難しいことである。遺体や行方不明者の数を数えるか、倒壊した建物の数を数えるか、それくらいのやりかたしか思い当たらないのは私も一緒である。その数、警視庁の平成29年6月の発表で死者15,894人、行方不明2,550人、負傷者6,156人、建物の全壊121,770戸、半壊280,286戸、全焼半焼合わせて297戸、浸水した建物13,583戸。平成24年2月、つまり震災からほぼ1年が経った時の警視庁の発表で死者と行方不明をあわせて19,131人。現在の発表の18,444人と較べ700人ほどの開がある

避難生活によるストレス死を含む震災関連死という言葉があって、その数は、復興庁の発表によると平成29年6月の段階で3,591人。さらに原発の被害に限っていうと平成28年3月の東京新聞による集計では1,368人。警視庁の調査で死者行方不明者の数が年々増えてゆくのならわかるけれども、減っていることの意味は私にはよくわからない。扱っている対象が違う恐れがある。さらに、復興庁の数字に原発事故の関連死が含まれているのかはわからない。放射能の影響による健康被害を国はほとんど認めていないので、それをどのようにこれから計っていったらいいのか、私には今のところ皆目見当がつかない

ある側面で、被害は被害者が語るしかないのかもしれない。時にそれは長い時間の沈黙となって現れる死者の声も含めてなのだが、被害者が被害を語ることを許すということが「わたし」と「あなた」との間において実践されてゆくことが、私は、大切だと思う。それを許す「わたし」と「あなた」との関係を「われわれ」と呼ぶのだと思う

ホイホイホイ

方丈記私記[平成]No.001

2011年の震災の頃のことを思い返すと、真っ暗な夜空に輝く星の光がまず思い浮かぶ。たぶん、数日後に原発がどかんとなった際に感じたあの底なしの恐ろしさの対比として、あの星がよけいに記憶の中でまばゆくひかるのだと思う。映画『ハトを、飛ばす』を撮ることは震災前から決まっていたけれど、撮影が開始され、そして映画がどうにもこうにもとりあえず完成したのは、その光と、その得体の知れない恐ろしさがいつまでも私の中にしつこく残っていたからだと思う。

また、ミチカケにも書き下ろした『サンコウチョウ』という文章もまた、同じようにその光と、その得体の知れない恐ろしさから発生したように思う。

恋するあの子のうしろに落とした尾が地面にそのままで、こころ踊って舞を舞う。暗闇の中から飛び出して、ホイ、ホイ、ホイ、夜空に散らばる星となり、百万年後の光源のことなどつゆ知らず。暗イウチハマダ滅亡セヌのなら、目を閉じることにも価値はある。目を閉じると闇がある。一周ぐるりとまわって触れたかったあの子の肩が、その闇にある。その闇のなか、長い長い尾が限度もなく落ち続けている。その落ちた尾を追う者はない。(ミチカケ/土と土が出会うところ/サンコウチョウからの引用)

「差異」が表現を可能としてくれるのだとしたら、あの光と、あの得体の知れない恐ろしさは確かに平和な日常からずっとずっとかけ離れていた。

けれども、表現するに値する差異は、日々平々凡々に繰り返される毎日にも溢れている。鳥が「ツキヒーホシホイホイホイ」と鳴くんだよと益子の陶芸家が教えてくれて、実際に、その鳥がツキヒーホシホイホイホイと鳴いているのを聴き、鳥は私のなかでサンコウチョウという名を与えられた。今まで聴こえていなかったその鳴き声が私のものとなると、私の家の森でも、時折鳴いていることに気がつくものなのだ。

差異はそこかしこにあって、つまりは「そこ」に意識を合わせるのかどうかということなのか。いや、私という実体と対象という実体があってそこに交感があれば(実体と実体が出会えば交感は無条件でうまれる)差異は関係ないとも思えてくる。意識されるのを待っている「それ」が無意識だとして、「それ」を意識して抑圧から自由になるために脹らませる必要があるのが自我なのだとすれば、「それ」などもともと取るに足らない、ということにならないか。ツキヒーホシホイホイホイ、「それ」が意識されるよりも先に音がある、そう思う