交換物

方丈記私記[平成]No.014

2018年の暮れに近い頃、私の関わるドライブイン茂木という場所でふたつのイベントが行われた。一つは『草のほほ』と名付けられた居相大輝さんの衣の展示(pejiteとの共同開催)、もう一つは『北風と太陽』と名付けられた河合悠さんのパフォーマンス。前者では、まぶしいばかりの光が満ち、文字通り自然と人とがほぼ等しくその日の光の中で戯れている、そんな景色が広がった。後者には、遊びほうけた子供が「いっしょにやろうよ」とまだ燻っている遊び心にまかせて薪で火を焚き暗闇で悪ふざけをしている、そんなおかしさがあった

「この世界は、神にせよ人にせよ、これは誰が作ったものでもない。むしろそれは永遠に生きる火として、決まっただけ燃え、決まっただけ消えながら、常にあったし、あるし、またあるであろう。万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である」

こう主張したのは「万物の根源は火である」と説いた紀元前500年頃に生きた人、ヘラクレイトスである。ヘラクレイトスが言うように、わたしもあなたも火を根源としている。そして、わたしとあなたは絶えずなにかを交換している。わたしと自然は、と言ってもいいと思う。宇宙がたった一回のビックバンから出来たとすることや、エネルギーの保存の法則(エネルギーが運動エネルギー、音エネルギー、熱エネルギーなどに移り変わっても、エネルギーの量は不変であるとする法則)のことを考えると、うんうん、とうなずくばかりである。例えば、平成最後の年末に光りに溶け込むようにして『草のほほ』が執り行われ、闇に紛れるように『北風と太陽』が起きたそのふたつの出来事も、けっして誰かが作ったものではなかったし、まるで手渡しで交換されたかのごとくわれわれの前に差し出された。そして、なによりもその両者に指差せるような境界線は存在しなかった。それらは、重なり、転び、こぼれ、にじむように結ばれていた。エネルギーと呼ぶしかないような「なにか」がその場で生成されていた。かと思えば次の瞬間、こちらの意志とは関係なくあっさり消滅していった、いや、なにかにトッテカワラレテイクのを感じた

振り返って、やっぱり火だけが常にそこにあったように思う(つまりは、闇も常にそこにあったということ)。光と闇がもつれるようにして交換されているその姿を、われわれは目にした。仮に、光と闇のその境を私に指差して示す者がいたとしても、きっと指差されたその場所はある人には十分にまぶしく映え、またある人にはすっかり暗さに落ちきって見えないはずだ。どちらにしても万物はあっちからこっちへ、こっちからあっちへと絶え間なく流転している

この世界に存在するすべてのものは一瞬たりとも静止していることはなく、絶えず生成と消滅を繰り返している、そう主張したのは鴨長明であり、ヘラクレイトスであった。ヘラクレイトスは、鴨長明と同じく世間が疎ましく感じられた人のひとりで、人里離れた山に暮らしの元を築き、草や木の実を食べて過ごしながら森羅万象に心を割いた人だった

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