Archives for the ‘大地’ Category

干す人

本州の最北の地で海藻を干す人と小屋(大間、2017)

賽の河原

最果ての賽の河原(恐山、2017)

聖地

2016050301

15年ぶりに訪れる聖地は、15年の月日をどう飲み込んだのだろうか

空/家/大地

2016031101

空と大地を繋ぐもの(沖縄、2015)

存在

2015031101

ただ、そこに在るということ

音の孤独

2014063001

か細い棒切れに結ばれた赤い布があちらこちらで風を受け、へんぽんと翻っている。揺れる布は、こんにちは、そんな風に言っているようでもあるし、さようなら、そんな風に言っているようでもある。こんにちはとさようなら、その両の手に掴まれて身動きが取れなくならないよう、できるだけ私情を挟まずにぽっぽぽっぽとハトのような返事をする(ハト本短編第四集『笑い』より抜粋)

梅雨

2014062301

花がてっぺんに来たら梅雨があけるんだよ、そうおばあちゃんに教えてもらったという記憶はないけれども、そう、おばあちゃんが言っている気がする

落ち葉さらい

2014031901

歳くったら一個百円とかの仕事じゃなくって山でも奇麗にしたいなぁ、そうつぶやく山崎のお父さん。原発事故後、断念していた落ち葉さらいを再開するべきか迷いは続く

2014012801

あっちからこっちに流れる生活の糧

旧年

2014010102

新年に旧年を思う

逆襲

2013081503

ジャングルのジム(オン・ザ・ロード/ルート4)

収穫

2013101001

今年もこの季節か、という風に考えることもあるけれど、毎回毎回、なんとかここまで来ることができた、というほうが気持ちに正直な感想です

ごちそうさま

2013063001

旅先でおいしい食べ物を食べたり素敵な出会いがあると、もちろん「ごちそうさま」「ありがとう」と言うべきひとに言うけれど、それでもそれを述べ足りないように感じるときがある。そんなときにこそ、その土地の神様っていてくれているような気がして、僕は、その土地にある神社に行って「ありがとうございます」とお礼を言うんです。

そんなことをおっしゃるお客様を益子にお迎えして、僕の大好きな神社にお連れする、そして、「すんごい神社だ!」と喜んでくれたときの充足感って、、、、。当然、私も神様に「ありがとうございます」とぺこり。

もう、ないよ

2013041901

最後の最後に

2013021703

撤収だ!と言われて最後の最後にボールを蹴り込んだ男、それを見守った女、それを想像するわたし。

浜吉田

2013021701

ハトを無事に家に返すひとつの力となるのが、愛、だといいます。「家に(のっけてくれる)かーちゃんが待ってくれていると思うと誰だって帰りたくなるだっぺ」とは山崎さんの弁。寄り添いながら身を守り、寄り添いながらよりよい生き方を考えるのが、種のとってきた道なのかな。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

ゆめ、うつつ

2012111405

数年前、ここで田んぼを耕していたあのひとは、この景色を見て笑うだろう、泣くだろう。ゆめ?うつつ?はっとするほどの黄色い大地を、今は雪が白く染めていること、私は、私の山の白さの中で、夢想する。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

楢葉の神社

駅前の神社、多分ここは毎日毎日「こんにちわ」という言葉や想いが溢れるところだったでしょう。今、それはなく「さよなら」があるだけ。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

北茨城

どこを飛ぶともわからぬ大地と空にあって、通ってくれたらいいなと思いながらまちぶせをする。地形や風を読んではいるけれど、無駄を覚悟でまちぶせる。じっと息をひそめて待っていると、その息が次第に環境に溶けていくのがわかる。動物も山も人もなにもないような気になる。けれど、待ち望んでいたあなたが目の前を通ると、はっと、全てがまた環境から突出して、人間だ!という気持ちが一気に沸き立つ。鷹もそんな感じではっとなって、ハトを襲撃している。そういやー、君もハトくんを待っていたんだよね。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

綱神社

ひとが目で感じて捉えている世界は、世界のほんの一部でしかないということを、ここ尾羽の里にある綱神社に展開した川崎義博さんのサウンドインスタレーション作品で確認しましたが、サウンド、といわれると耳のことのように思われるかもしれません。しかし、耳が感じていることもまた、ひとが感じていることの一部でしかないでしょう。それじゃあ、五感で感じればそれが世界の全てなのかというと、そうじゃない、まさにそのことに気づかせてくれるのが、川崎作品の魔術なのです。

最後の冒険家

石川直樹さんが最後の冒険家と称した神田道夫さん。彼が最後の冒険へと飛び立つ最後の最後に踏みしめただろう大地は栃木でした。毎年、冬のおなじころでしょうか、何艘もの気球が家の上空を流れていくのに出くわします。空に浮かぶ気球を見ると、ふと、神田さんの目線が意識されるのです。海しかない、そんなところに不時着する気持ちなど私からは遥か遠いはずなのに、一瞬ですが、その海を感じるのです。海に面していない栃木にいて、そんなことを可能としてくれる、一年のうちでも貴重な日。きっと私の中で、神田さんはまだ冒険の途中なのでしょう。

富士の裾野

山の麓に押し寄せる生活の波は、こうしてみるととても儚い夢のよう。たしかにそこに山はあるのに、、、、。私の生活に、本当に寄り添ってくれるものが何なのか、表現者として考えさせられた、富士の裾野に立って。

稲作を終えて

大地を見下げていると、そこに空も見えるような気がするんだけれど、空を見上げていて、そこに大地が見えると思えるときもありますよね?

冬瓜

海の底と思えば泳ぎだしそうだし、地面にのっぺりと横たわっている姿は生命体そのもの。これを軽々しく「もぐ」と言っていいものなのか。そんな疑問はおそらく農家のひとにもあって、囲炉裏を囲ったとき山崎のお母さんは「体調が悪いともっていかれるの」とつぶやいていました。

岩角

どうしたらよいのですか? ようやくたどり着いたのに、問いかけるべき岩は、音もなく、時間の中へと消えてゆきました。今、問いは問いのまま、私の前にあります。

西汗

大地と空を分つものは何でしょうね。おそらく、そんなものを分つのはないんでしょう。それぞれはそれぞれに浸食し合いながら、環境というものに含まれている。いや、大地と空を分つものなんかなくって、そして、私ともつながっているんだったら、それらを含むものとしての環境なんてあってないようなものなんじゃないのかな。まあ、それでも、ひとまず上三川の西汗という場所の写真に「大地」という名を当ててみるわけですが、それはそれ、これはこれ。ちなみに、この場所を撮影したのは数年前、今は建物も木も現存せず。