Archives for the ‘家’ Category

惹かれるもの

2013051003

身を守るためにつくられてきた家がとにかく私を惹きつけるのは、それが私一人の興味というよりも、太古の昔から引き継いだ記憶に触れる(振れる/降れる)から。潮風にさらされたこの家の主は今はカラス。(オン・ザ・ロード/ルートH)

ちょっと待ってよ

2012040202

冬は、葉も落ち停滞して当然の季節だから、好きです。梅が咲き、桜が花開く頃には、なんだか進歩を要求されているようで、ちょっと待ってよ、という気持ちになってしまいます。世の中はそんな声には答えてくれないけれど、でもその、ちょっと待ってよ、の前にまだ冬なのが東北です。いや、青森の白浜に住むこの家の住人が、ちょっと待ってよ、と私に声をかけてきそうです。そして、そんな両者を必ず待ち構えていてくれるのが、次くる冬です。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

相馬小高神社

2013021705

巨大な穴の手前、ここから、とここまでの境にある神社。空虚な穴を癒す手がここにある。

あるわけない

2013020901

去年あった風景だからといって、今年それがあるとは限らない。いや、去年あった風景だから、今年なんかにそんなの、あるわけない。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

楢葉の神社

駅前の神社、多分ここは毎日毎日「こんにちわ」という言葉や想いが溢れるところだったでしょう。今、それはなく「さよなら」があるだけ。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

綱神社

ひとが目で感じて捉えている世界は、世界のほんの一部でしかないということを、ここ尾羽の里にある綱神社に展開した川崎義博さんのサウンドインスタレーション作品で確認しましたが、サウンド、といわれると耳のことのように思われるかもしれません。しかし、耳が感じていることもまた、ひとが感じていることの一部でしかないでしょう。それじゃあ、五感で感じればそれが世界の全てなのかというと、そうじゃない、まさにそのことに気づかせてくれるのが、川崎作品の魔術なのです。

家について

現代に生きる私にとって私の家は、単純に雨風をしのぎ、家族や生活を守る、モノ、であればいいという気持ちです。震度6弱の地震と、竜巻をもその家の中で 耐えた今となっては、もうこれで十分じゃないのかな、っていう感慨が深まっています。もちろん、私の子供やその子供達がそれらの意志で私の家を大切に使いたいと思ってくれればそれほど嬉しいことはないですが、百年住宅などと言うことの現実味が、私にはありません。こんな家はいらないと思われて、それなのに、大地にしがみつくように醜い基礎を地面に残すのは、私の家の役割ではないように思えるのです。過ぎればさらりともとの山へと形を返してあげることができる、これが私の、理想の家の置き方です。家族があり、その少し先に家がある。そう思えるくらいの大きさで、家はいいように思うのです。(下野新聞『上の台だより』より抜粋)

愛の巣箱

「優秀な種バトっていうのはよく飛んだ鳥ってことではないんだっぺ、つまりはよ、よく飛ぶ鳥を生むハトが優秀な種バトってことだっぺ」去年の今頃はまだハトをただただ気持ちよさから飛ばしていた山崎さん。私などには計り知れない今の心境を、うまく飛ばないハトが物語っているかのようです。それでも、悲しみを重ねる度に飛ばしたくなるのがハトなのかも。ひな祭りの今日、「町田さんのハトをペアリングするだっぺ」といって、合計4羽の美しいハトを巣箱へと移してくださいました。

棟木が舞うとき

棟木が空を舞うとき、これからこの家で生きてゆく人のことを思うその合間合間に、なぜだか、亡くなった近しい人のいくつもの顔がふつふつと思い起こされます。どうも、棟木という一本の材木は、山から海へと流れる川のように、その両者を分ちつつも繋げているようなのです。それも、空を舞うその瞬間に限って。

待つこと

待つことに終わりはないなって、つくづく思います。今日蒔いた種が明日実を成らすことはないけれど、繰り返される毎日の中で、その瞬間を待ちながら誠意をもって「今」を生きていると、気がつけば技術は向上し、そして、気がつけば生活が向上している。待つ、ということ、待つという環境を整えていくということにこそ生活の基礎がある、そのことを、この一年で、痛感しました。

西汗

大地と空を分つものは何でしょうね。おそらく、そんなものを分つのはないんでしょう。それぞれはそれぞれに浸食し合いながら、環境というものに含まれている。いや、大地と空を分つものなんかなくって、そして、私ともつながっているんだったら、それらを含むものとしての環境なんてあってないようなものなんじゃないのかな。まあ、それでも、ひとまず上三川の西汗という場所の写真に「大地」という名を当ててみるわけですが、それはそれ、これはこれ。ちなみに、この場所を撮影したのは数年前、今は建物も木も現存せず。