朗読 + クラヴィーコード

「ハトを、飛ばす/朗読 with クラヴィーコード」を終えて

僕は、「わたくし」を私という存在の範囲に留めておくのはもったいないと常々思っています。文章を書く行為は、その感覚を世界へ(自然/環境)と拡張する方法のひとつなのですが、このような催しはその感覚をより多層的にする方法だと、思います。僕は、クラヴィーコード奏者の内田さんを信頼していて、彼を、僕の一部だと受け入れることができているので、もはや彼の感覚は僕の感覚の延長にあります。彼が紹介してくれた岡安さんは、彼が信頼しているというその一点で最初から受け入れることができて、そして、その二人が作ってくれた空気に触れ、何かを感じてくれている聴者のこともまた自然に受け入れることができました。来場者の中に、そういう意味で受け入れられない人はひとりもいなくって、全体が、もう、僕の一部であるとすら言えるわけです。そもそも「わたくし」は、そうやって閉じ、開いている存在なんだなぁと考えてみると、そのさらに延長に町や都市があるのであれば、町や都市も信頼のおけるものになるはずだ、という妄想へと発展していきます。そこには危険性もあるんだけれども、「わたくし」が私の中に自閉していることにも似たような危険性はあるわけで、であれば、どうしたいのか、という一点が問題になるのでしょう

皆様、すてきな時間をありがとうございました

 

KO

朗読家/岡安圭子

 

AU

調律師/内田輝(写真:谷藤貴志