蓮のうえ

蓮のうえに乗っているのはだれなのか、そんな問いが無意味なように、私の問いも無意味なのかもしれません。けれど、今の私には、その「問い」が感じられたことこそが、なんとなく大切なような気がしています。問いを発する「私」を感じる以前にそこにあった「問い」は、時間のどこかでだれかと共有している「問い」のはず、、、。

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