石釜(福岡)の棚田

これだけ奇麗な棚田を石で作るのは、ただ、この地域に石がたくさん出てきたからだと思うのだけれど、それでも、これだけ石を奇麗に積もうと思うのは、やっぱりひとの性(さが)なのかな。でも、石を奇麗に積み上げたいという性は、現代というつまらない時代にあっては割にあうわけもなく、煙のように環境に溶け、今では消えてしまった後でしょう。ただ、その性もまたそれこそ煙のように、本当は消えたのではなくそこに含まれてしまっただけでしぶとく存在しつづけているのだ、という気がし、つまらない現代に生きている私の、希望であったりします。

種バト

昨年の春には100羽近くに増えたハトも、今では天敵に襲われたりふらっと失踪したりして30羽いるかいないか。しかし、なんとか僕のハトは巣箱へと毎日の飛行から帰ってくる。昨日、「このハトを種バトにするか」そうおもむろに山崎さんに提案され、「はい」と僕。今度の春、レースを飛ばずに子孫を残すことになった白いハト。稚内レースから巣箱目指して帰ってくることもそうだけれど、それだってまた、遠い道のりに思える。

カラス

最近、カラスのことがめっぽう気になります。カラスのことを、カラスの鳴き声のことを気にする人にも、興味があります。

棟木が舞うとき

棟木が空を舞うとき、これからこの家で生きてゆく人のことを思うその合間合間に、なぜだか、亡くなった近しい人のいくつもの顔がふつふつと思い起こされます。どうも、棟木という一本の材木は、山から海へと流れる川のように、その両者を分ちつつも繋げているようなのです。それも、空を舞うその瞬間に限って。

謹賀新年

あけましておめでとうございます。本年度もよろしくお願いいたします。昨年度は手探りでの撮影でしたが、今年はもう少し踏み込んだ撮影ができるといいと思っております。

待つこと

待つことに終わりはないなって、つくづく思います。今日蒔いた種が明日実を成らすことはないけれど、繰り返される毎日の中で、その瞬間を待ちながら誠意をもって「今」を生きていると、気がつけば技術は向上し、そして、気がつけば生活が向上している。待つ、ということ、待つという環境を整えていくということにこそ生活の基礎がある、そのことを、この一年で、痛感しました。

白菜の海で

土の恩恵を存分に受け、そこに根ざしながら空高く飛ぶ術を知っているハトのようなひとりの農夫が私の町には住んでいる。巣に返ってきたハトを迎えるとき、うまくなった農作物を前にするとき、今まさに舞の途中であるといった笑いを彼は顔に浮かべる。土地と空とは、それぞれがそれぞれを映した鏡像だ、ということを鳥が空を通して知っているように、ハトをやる農夫は土を通して知っている。何百キロ飛んで返ってきたハトを見るとそれがどんな旅だったのか全てわかる、と言う土に活かされ空を知る彼こそが、空と土地の間にある一枚の鏡なのかもしれない。 (「ハトを、飛ばす」本文より抜粋)

最後の冒険家

石川直樹さんが最後の冒険家と称した神田道夫さん。彼が最後の冒険へと飛び立つ最後の最後に踏みしめただろう大地は栃木でした。毎年、冬のおなじころでしょうか、何艘もの気球が家の上空を流れていくのに出くわします。空に浮かぶ気球を見ると、ふと、神田さんの目線が意識されるのです。海しかない、そんなところに不時着する気持ちなど私からは遥か遠いはずなのに、一瞬ですが、その海を感じるのです。海に面していない栃木にいて、そんなことを可能としてくれる、一年のうちでも貴重な日。きっと私の中で、神田さんはまだ冒険の途中なのでしょう。

ハトの持寄り

スタート地点から到着地点にかけての天候を考慮しながら、飛ばす日時を何度か変更しつつも、今シーズン最後のレースに向けてハトの持寄りが行われました。帰ってこいよ、という気持ちはみな共通なんでしょうけれど、「どうせ帰ってこねぇっぺ」と軽口をたたきあうハト仲間たち。巣である家に帰ってくるからハトを好きになるのか、好きだから家に帰ってきて欲しいのか。

富士の裾野

山の麓に押し寄せる生活の波は、こうしてみるととても儚い夢のよう。たしかにそこに山はあるのに、、、、。私の生活に、本当に寄り添ってくれるものが何なのか、表現者として考えさせられた、富士の裾野に立って。

白いハト

この白いハト、わかりやすいから町田さんのハトにするっぺ、と山崎さん。来年の春にはレースを飛ぶのか、いや、その春まで、鷹に補食されずにいてくれるのか、わくわくとはらはらが同居です。

稲作を終えて

大地を見下げていると、そこに空も見えるような気がするんだけれど、空を見上げていて、そこに大地が見えると思えるときもありますよね?

聴覚の世界

今朝から鳩小屋の窓を一部開放しているのに鳩たちはなかなか外の世界を飛ぼうとしない。今年の春先に生まれたひなにとっては初めての世界だし、親バトにとってもそれは久しぶりのこと。恐怖心というのは外の世界で学ばなくとも遺伝的に受け継ぐものなんでしょうか?との問いに、それもあるけれど、確かに鳩小屋での生活によって視界は制限されているけれど、タカなどの声は届いているはずだし、野鳥の敵を警戒する鳴き声も耳に入っているから、と先日の大雨で寝てしまったお米「ゆうだい21」の稲刈りを始めながら、山崎さん。(R06)

冬瓜

海の底と思えば泳ぎだしそうだし、地面にのっぺりと横たわっている姿は生命体そのもの。これを軽々しく「もぐ」と言っていいものなのか。そんな疑問はおそらく農家のひとにもあって、囲炉裏を囲ったとき山崎のお母さんは「体調が悪いともっていかれるの」とつぶやいていました。

青、まだ遠い

箱船は いっそうの 助け

運ぶのは いっつうの 手紙

青、まだまだ遠い

青、遠い

空は 水の底

躁は 白い鳥

青、遠い

そら やるぞ

ぽっぽぽっぽという間もなくえさを食べています。

音の孤独

老舗のデパートの外壁を色取る国旗が風を受けてへんぽんと翻っている。ホシムクドリの体に浮かんでいる星が小さな四角い青空にも同じように散らばっている。動きをもらった赤い直線のストライプが、静かに眠る森の住人を煽っている。

祖父は、静かにこう話し始めた。まるでそこが戦場で、私が敵に見つかってしまうことを怖れているかのように。

「私はいつ死んでしまうかわからないから、このことだけは話しておきたいとずっと思っていたんだよ」(『ハトを、飛ばす』本文より「音の孤独」)

祖父が語った戦争の記憶は、私の側の言葉とは分離して、語られたときのまま、国旗を揺らす風の届かぬ底に今も沈んだままでいます。

蓮のうえ

蓮のうえに乗っているのはだれなのか、そんな問いが無意味なように、私の問いも無意味なのかもしれません。けれど、今の私には、その「問い」が感じられたことこそが、なんとなく大切なような気がしています。問いを発する「私」を感じる以前にそこにあった「問い」は、時間のどこかでだれかと共有している「問い」のはず、、、。

岩角

どうしたらよいのですか? ようやくたどり着いたのに、問いかけるべき岩は、音もなく、時間の中へと消えてゆきました。今、問いは問いのまま、私の前にあります。

安達太良山

あなたがいったほんとの空がここにある。この安達太良の空を、光太郎の肉に宿り、精神に座っているあなたが飛んでいる。わたしがとばしたあなたが、ほんとの空に、うかんでる。

そして、苗床

まだハウスの中のキュウリが盛りを迎える前から「次」を育てる。種まき、畑、作付け、収穫、畑、田んぼ、収穫、水やり、畑に、そして、苗床。何ひとつとどまることのない世界の中で、肉体的にも精神的にもある種機械化された反復作業の中にこそ、拘束された農夫が自由にハトを飛ばすことを可能とする秘訣があるように思えます。

人工交配

受粉能力の高い早朝に、おしべとめしべをごっちんことくっつける。ズッキーニは、樹ばかりが大きくても実をならさず、逆に樹が弱ければそれ以前の問題となる。樹をつくることと実をならすことのバランスを考えた上で土の状態を整え、交配のタイミングを農夫は長年の経験から判断する。(R04)

無心ですか?

野菜を摘むときは無心ですか?

そんな、もったいない。野良作業の醍醐味は、あれやこれやと考える時間がたくさんあることだ。得意のキュウリを前に、山崎さん。(R03)

南三陸

森有正さんの教えという訳ではありませんが、やっぱり私も、ヒューマニズムとか、平和とか、自由とか、そういうところからスタートするのはまずいような気がするんです。今回の人災を含めた災害が、映画を撮り始めた私に、そのことをいやというほど突きつけます。例えば農夫にとっての自由とは、いろいろなものの犠牲の中に、いろいろなものの経験の果てに、いろいろなものの罪の終極にあるのではないでしょうか?南三陸の空を見上げながら、そういうことを思いました。

瑞々しい、ひな

生まれて数週間の赤ちゃん。この子たちが空を飛ぶ日はいつになるだろう。無事に空を旅するところまで成長してくれるかな。空は、いや、世界はきれいごとばかりでは行かないからね、、、、。一緒に成長できたら嬉しいです、よろしくお願いします。(R02)

西汗

大地と空を分つものは何でしょうね。おそらく、そんなものを分つのはないんでしょう。それぞれはそれぞれに浸食し合いながら、環境というものに含まれている。いや、大地と空を分つものなんかなくって、そして、私ともつながっているんだったら、それらを含むものとしての環境なんてあってないようなものなんじゃないのかな。まあ、それでも、ひとまず上三川の西汗という場所の写真に「大地」という名を当ててみるわけですが、それはそれ、これはこれ。ちなみに、この場所を撮影したのは数年前、今は建物も木も現存せず。

冬の朝のよう

春とは思えないほど冷え込んだ朝、しょっぱなのロケ撮影だから、なんだか対象に向かう姿勢を正されたような気がしました。ハト小屋の前でまずは山崎のお母さんが握ってくれたおにぎりを食べながら談笑。山崎さんとはゆるい話に終始したんですが、こういうしゃんとした朝の風景も以前とは違って見えるよね、というようなことを話した記憶があります。(R01)

クランクインしています

ハトはどうしてこんなに魅力的なんでしょう。人と大地、人と空、空と大地、そして、いっそう、そういうものすらを超えたものとしてハトを撮れたらいいな。